今回から3回に分けて、
過去の自分をふり返りたいと思います。
百者百様の発達障害者の1事例として読んでいただければ。
最初に簡単な自己紹介をすると、
- 40歳
- 在宅勤務(事務)をしている
- 31歳の時に【広汎性発達障害(現ASD)】と診断
- 夫もASDの凸凹夫婦
- 生後1歳4か月の娘あり
診断前は
ナースや相談員の仕事をしていて
診断後は、障害者雇用で2社働きました。
*現在障害者雇用3社目
詳しくはこちら↓の記事もご覧ください。

乳幼児健診 問題なし

私は東京の西のはずれ、青梅市で生まれ育ちました。
「自然豊か」
と言えば聞こえはいいですが、
家の目の前はダンプカーの行き来が激しく、昼間は常に排気ガスの臭いが漂う、四方を山に囲まれたど田舎で育ちます。
両親と3つ下の弟がいる4人家族。
一軒家に住むごく一般的な中流家庭。
裕福でもなく、貧しくも感じなかった子ども時代を過ごします。
2,500gで生まれので、ギリギリ未熟児ではなかったものの3日間だけ保育器に入りました。
その後の成長は目覚ましく、
タテ(身長)もヨコも周りの子より頭ひとつ大きな子に成長しました。
乳幼児健診で発達に関する指摘は1度もなく、
病気とは無縁の健康優良児としてすくすく育ちます。
両親は私に発達障害があるなんて思いもよらなかったでしょう。
というのも40年前は「発達障害」の概念は日本にはなく(?)、
「知的障害」とも混同されていました。
親族にも「障害者」と認定された人はいないし。
まあ私から見ると、
父方の親族はほぼ全員ASD傾向があるように見えるけどね(;^ω^)
機能不全家族 学校は避難場所

完璧主義でヒステリック、過干渉の母と、
病院へ行けば何らかの診断がつきそうなASD傾向の父。
そんな両親から、子どもの頃は怒られてばかりでした。
母からは褒められたことがなく、
テストで100点を取っても
「お前が100点ならほかに100点取った子が沢山いるだろう」
「お前は何をするにも人の3倍かかる」
母から事実を突きつけられ、
怒られ、親から暴力を振るわれてきた私は、
人の顔色をうかがう自信のない人間になってしまいました…
特に母は気分屋で、
自分の気分次第で私を無視する、怒鳴り散らす、暴力をふるう等
の虐待をしてきました…
(子どもに絶対にやってはいけない行為)
父(精神年齢5歳児)は父で、
脈絡なく突然笑顔で背中や太もも等をバチーン!と叩いてきて
背中や太ももに父の手形がくっきり。
赤く腫れあがり、よくみみず腫れをおこしていました…(;_;)
親からなぜ怒られ続けるのか、今となっては覚えていません…
けど、
「怒られる私が悪いんだ。
私は悪い子なんだ。
私はダメな子なんだ。
ダメな子だから、もっと頑張らなければいけないんだ。
がんばって頑張って、人並みにならなきゃいけないんだ。」
と歪んだ認知と自責が身についてしまい、
後々の自分を苦しめる原因にもなります。
こんな両親に育てられた私は、自己肯定感など持てるはずもなく…
私にとって家は、
安心できる場所ではなかった。
むしろ、
いつ怒られるか、
いつ暴力や暴言を振るわれるか分からず、常に心のどこかで怯えていました。。
もう1人の自分を空想
そして
あまりに親(特に母)からの暴言・暴力を浴び続けた私は、いつしか空想の世界へ旅立つのが毎晩の楽しみになりました。
それは、
自分より過酷な状況に置かれた容姿も能力も違う””もう一人の自分””を空想の世界で作り出し、その人の冒険ファンタジーを頭の中で描くことを毎晩の楽しみにするようになったのです。
その人を空想している時、現実の辛さから目を背けられたのです。
10代の初めから30代の始め頃まで、毎晩のように””もう一人の自分””と共にありました。
空想の世界地図、街の様子、人種、戦い、恋愛まで詳細な物語を描いてきました。
精神科へ通院し、カウンセリングを受けたり、
診断後からは””もう一人の自分””を空想する頻度は徐々に少なくなっていきました。
外からは、ごく一般的な家庭に見えたかもしれません。
が、その実は虐待が存在する機能不全家族だったのです。
機能不全家族については、別途ブログに書きます
虐待を受け続けると、
脳が委縮・変形して発達障害によく似た症状が出る、と今では言われています。
私の場合は
元々発達障害はそんなに濃くなかったけど、虐待によって脳が委縮・変形し、より発達障害の症状が強く出るようになってしまった、と自分では思っています(あくまで仮説)。
で、
小中高の時は、家では1分とイスに座っていられず、座っていられるのは好きな絵を描いている時だけ。
勉強の習慣はまったく身につきませんでした。
学校では授業を「真面目に聞いている風」にしていたけど、実際は白昼夢。
授業とは別のことを考えたり空想にふけっていました。
また、物心ついた頃には
ひどい入眠障害を抱えていました。
布団に入ってから30分以上経たないと眠れず、1~2時間経ってようやく寝つけることもよくありました。
今でも寝つきはとても悪く10年眠剤を飲んでいました。
(現在は頓服)
真面目で大人しい生徒 見過ごされたADHD
学校では、真面目で大人しく目立たない生徒、
小中学校では成績は真ん中くらい。
朝が苦手で特に高校の時は、
年50回くらい遅刻していました(;^ω^)
高校は偏差値低めの学校へ進学したので上位10%の成績を常にキープしていて成績だけは良かったので、遅刻に対して大目にみてもらっていました。
英語はすごく苦手ですが、テストは持ち前の直感を発揮してしまい、どの教科も極端に悪い成績は出なかったです。
(30代になって英語LDが発覚しました)
先生からは、一見とても真面目で授業の態度もよく、成績もクラスで2番・3番目なのに遅刻しまくるという、よくわからない変な生徒だったと思う(;^ω^)
家では親からの暴言・暴力があってしんどい場所でしたが、
学校では怒られることはほとんどなく少ないながら友達もいてわりと楽しかったです。
そう、
私は学校では大きな問題はありませんでした。
いじめも不登校もなく。
もし学校まで辛い場所だったら、
いま私はこの世にいないと思います。
さいごに 短大卒業までは順調
乳幼児期、
そして学校も大きな問題はなかった。
朝起きるのが苦手で遅刻を繰り返していた問題は、成績優秀であやふやになり、社会に出るまで発達障害が見過ごされてしまいました。
短大卒業まで、私の人生は機能不全家族を除いて順調だったと思います。
しかし短大卒業後、
20歳で社会に出てから躓き始めます。
②へつづく→
★こちらのサイトにも私の体験談が載っているのでぜひご覧ください
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